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誇り
アルベール・カミュの「ペスト」を読んだ。
とある街で原因不明の発病者が続出し、それがペストだと判明。
外部と遮断された孤立状態の街の中で、
そのペストと戦う市民の姿を描いた作品だ。
この長編には様々な職業や思想の人物が登場し、
ペストという「悪」に対しての向き合い方、戦い方がそれぞれ違う。
神としての正義を訴える者、
社会としての正義を考える者、
人間としての正義を考える者、
それらの正義や悪に反抗する者、
そして、全ての関連性を認め、変わらない者。
その中で俺が一番印象に残ったのは、ランベールという新聞記者だ。
ランベールは新聞記者で、たまたまこの街に取材に来たら、
ペスト発生によって街に隔離されてしまった。
パリの残してきた恋人のことを考え、
「たまたまこの街に来た俺は、パリに帰る権利がある!」
と脱走を試みる。
ここで注目すべきランベールの心境は、
個人の幸福の立場に立っているということだ。
自分の幸福を犠牲にするに足るほどの価値あるものはないと信じ、
パリの愛人のもとに帰ろうと脱走を試みる。
しかし、脱走計画を進めていくうちに、悪と戦う市民を見るうちに、
ランベールの心の中になにかが生まれていく。
「今も依然として自分の信じていたとおりに信じているが、しかしもし自分が発っていったら、きっと恥ずかしい気がするだろう。そんな気持があっては、向こうに残してきた彼女を愛するのにも邪魔になるに違いない」
犠牲を選ぶか、幸福を選ぶか、という問題ではない。
人々を見殺しにした幸福は、もはや幸福ではありえないのだ。
それに気がついたランベール。
その瞬間に彼の中で新しい「モラル」が生まれたのだ。
「命あっての物種」という言葉。
俺は正直、この言葉にあまり魅力を感じない。
かといって、別に生きることに落胆し死への渇望があるわけでもない。
俺だって死にたくはない。
ただ、ダラダラとでもいい、長く生きることが大事だ、
と考えるのなら、その人生にはどういう面白さがあるのか。
「人生は長さよりも深さ」
だと俺は思っている。
そこには命よりも大事にすべきものがあるのだ。
例えば、今、日本が戦争になり徴兵令が出されたらどうするか。
もちろん行きたくない。
死にたくない。
殺したくない。
できれば自分だけ生き延びたい。
純粋にそう思う。
でも、
「死にたくないよ;;・・・・・・・・・でも、行くか・・・。」
と思うだろう。
それは、守るべき家族や大事な人がいるからだ。
「死にたくない!」というのは私的な感情である。
これはどんな人間でもあるもので、もちろん俺もそうだ。
しかし、「だけど・・・」という感情。
私的な感情、「死にたくない!」という気持よりも、
優先すべきものがあると思うのだ。
それは「誰かを守る」という小さな公共性のあるものであったり、
「日本人として国を守る」という大きな公共性のあるものまで。
そして、自分自身の中のプライドであったり。
ランベールは、「自分の幸福」という私的な感情よりも、
自分の中の「誇り」を優先し、街でペストと戦った。
そう。
「人間としての誇り」を持って生きているかどうか。
それこそが人生の深みを増すための大きな要素なのだろう。
「自分さえよければいい。」「人に迷惑かけなければいい。」
自分の価値観だけで判断し、全て自分のフィルターを通す。
確かにそれも一つの真理ではある。
しかし、それはあまりにも「私」的すぎないか。
はたしてそこからモラルは生まれるのだろうか?
自分の中の「誇り」というものは生まれるのだろうか?
「私」的な感情が悪いと言っているわけではない。
ただ、要はバランスなのだ。
それが偏りすぎると、あまりもの自分勝手な生き方になる。
「ムカついたから殺した。」
などという、最近の青少年犯罪なんかは、
まさにその「私」的感情の暴動なのではないだろうか?
「殺したいくらいムカつく!だけど、人として殺人はダメだ。」
無意識のうちにそう考え、「私」的感情を抑える。
その「公」的な感情こそが、人間の守るべきものであり、
持ち続けなくてはいけないものだと思う。
長くなったが、俺はカミュの作品から、そういうことを学んだ。
ランベールの生き方、「私」と「公」の葛藤、人間の誇り、
それらはすべて人間に対する「愛情」であり、「高潔」さである。
そして、それを持ってこそ人は幸せに生きられるのだ。
音楽をやっていても思う。
誇りやプライドは持つべきものだ。
捨てるべきものは、「見栄」であり「虚栄心」。
この2種類はまったくの別物でなのである。
永田 武 : 2005年11月12日 02:33